「いつか君に……」


いま明かされる翔誕生までのラブストーリー
そのとき、確かに僕らは動揺したが、僕らが出した答えは間違ってはいなかった。

少し重いのですが読んでやってください。オフラインでじっくりどうぞ。


 1997年5月1日彼女の体に新い命が誕生していることが分かった。より正確に言うならば”誕生してしまった”
と言うことになる。その事実が明らかになったとき、僕も彼女も動揺した。彼女は泣き崩れ、僕も泣いた。このとき流
した二人の涙の量はどれくらいだったのだろうか。僕たち二人に重くのしかかってきた現実をすぐには受け止めること
ができなかった。どう答えを出すべきなのか、ずいぶん迷ったが、二人が出した結果を今は誇りに思っている。


「豊、生理が来ないの!」
 彼女がそう言ってからすでに二週間が過ぎようとしていた。最初は寝不足や不規則な生活からの生理不順だと思って
いた彼女も二週間以上生理がおくれていることに、さすがに不安になっていた。彼女は親友に相談したり、一日に何度
もトイレにいったりして確認していた。 
「妊娠してたらどうしよう。」
 彼女が心配そうに僕に言った。僕も生理不順だと単純に考えていたが、少し心配になってきた。テレビドラマでよく
ある場面だなと思った。もし彼女が妊娠していたら僕たち二人はどうなってしまうのだろうか。僕は何を言ったらいい
のかわからず、ただ黙っているしかなかった。

 テレビのニュースは五月の連休が始まったことを告げていた。僕たちはこの連休中に、僕の実家がある青森に帰郷す
る予定だった。そして出発の前に妊娠してるかどうかを確かめようと言うことになった。僕は近くの薬局で妊娠検査薬
を買っってきた。僕としては妊娠検査薬ではっきりと結果を見て、彼女の不安を取り除いてから帰郷したいと思ってい
た。妊娠しているだなんて信じたくなかった。
 さっそく僕は彼女の寮まで迎えにいった。朝の太陽がだんだん高くなり、陽射しも徐々に強くなってきた。季節は確
実に春から夏へと移り変わろうとしていた。僕はバイクにまたがり、エンジンをかけた。不規則なシングルエンジンの
音がようやく眠気をさましたかのように規則正しいリズムを刻んだ。僕はスロットルを回すと暖まりかけた朝の中に飛
び出した。早く彼女を安心させてあげたかった。


 彼女は旅行の準備をしていた。大きなバックを手にもって僕の前に現われた。いつもより少し眠そうだったが、それ
は朝が早かったせいだった。
 僕は彼女を後ろに乗せ、自分の部屋へと急いだ。そして部屋に着くとすぐに急いで妊娠検査薬の箱を開けた。
 その妊娠検査薬はステック状で体温計の様な形をしていた。根元の広い部分には白くて丸いマークがあった。説明書
には検査薬の先に尿を浸して2、3分待つと書いてある。もし陽性だったらこの白いマークに赤い線が浮き出てくる。
 僕は彼女に紙コップを手渡した。彼女は不安そうに受け取った。
 しばらくしてトイレから出てきた彼女は、紙コップに妊娠検査薬を浸した。しばらくじっと見ていた。ドキドキして
いた。
 そのときだった。検査薬に変化がおきた。白く丸いマークの色が変わった。赤い線がはっきり浮かび上がった。
 その瞬間、彼女は泣き崩れ、僕は言葉を失った。彼女は両手を強く握り締めて、大粒の涙を流した。感情にまかせて
ただ大声で泣いていた。
 僕は手が震えていた。声がでなかった。僕は完全に声を失ってしまった。
 僕は検査薬が陽性を表示しても、まだ信じられなかった。もしかしたら検査方法を間違ったのかもしれない。もう一
度説明書を手にとった。そして隅からすみまで読みあさった。がしかし、いま起こっている、この事実を変えることは
できなかった。
 彼女はずっと涙を止めることができずにいた。彼女は悲しいときや嬉しいとき、何かあるとすぐに涙を見せるのだ
が、こんなに激しく泣いている彼女を見るのは始めてだった。
 いつまでたっても涙は小さくならずに、むしろ粒が大きくなっているようだった。彼女の顔は赤くはれて、涙と鼻水
は止まらなかった。
 こんな彼女を見ているのが辛かった。僕は何とか彼女の涙を止めてあげたかった。彼女をこんなに悲しませている自
分が悔しかった。
 僕はどうしたらいいんだろう。今の二人には実際に子どもを育てることなんて無理だし、やっぱりおろすしかないの
か。あんなに傷ついている彼女の、心だけじゃなく体までも傷つけてしまうことになる。
 それを考えた瞬間、僕の目にも涙がたまった。やがて、こらえきれず涙は頬をつたって下にこぼれ落ちた。
 いつのまにか僕も大声で泣いていた。まるで子どものように、感情にまかせてただ大声で泣いた。こんなに涙をなが
したのは子どものときいらいだった。

 もうどれくらい泣いたのだろうか。僕も彼女も泣き疲れていた。だがどれほど涙を流してもこの事実は変えることが
できない。
 僕たちはまだ、この真実を正面から見ることができずにいた。
 彼女はまだ落ち着かなかった。はれた眼からはまだ涙が止まらない。
 僕は泣きすぎで頭が痛かった。
 涙ではれた赤い眼をこすりながら、僕は彼女に言った。
「ごめんね。俺がもっと気をつけていればよかったのにね。」
 僕は彼女を抱きしめながら言った。
 最後のほうは、涙声であまり言葉にならなかった。
「豊のせいじゃないよ。」
 彼女はいってくれた。
 そう言われると、ますます辛くなり、大きな涙声になっていった。
 僕は力いっぱい強く抱きしめた。
 彼女の小さな体は僕の腕に抱かれながら震えていた。
 とりあえず今は彼女の涙を止めたかった。はやく彼女の笑っている顔が見たかった。
 その笑顔を彼女は取り戻すことができるのだろうか。
 僕は涙で濡れた彼女の頬に、顔をあてた。そして泣きやまない彼女の口をふさぐ感じでキスをした。僕自身も必死で
涙を殺した。
 もう何も言葉は出てこなかった。僕たちは泣いてばかりじゃいられなかった。超えなければならない試練が僕たちの
前に立ちはだかった。
 どう答えをだして、どう対処すれば良いのだろうか。これからの二人の人生においての重要な選択であった。
 このとき僕の頭には中絶するしかないと思っていたし、もしかしたら違うかもしれないと思う気持ちも、わずかにあ
った。違っていたらこの気持ちが冗談ですむ。この事実がすべて笑い話になったらどんなにいいだろう。そう僕は何度
も思った。
 彼女だって中絶するしかないって考えていたにちがいない。
 いまおろしたら連休明けには何事も無かったように振る舞える。ゼミのみんなや先生、両親にも気付かれない。自分
さえうまくごまかせれば、すべてはもと通りになる。
 僕も彼女もいっしょのことを考えていた。
「中絶したらどれくらいお金かかるのかな」彼女は涙声で僕に聞いた。
 僕もそれがどんな手術で、どれくらいの費用なのか全く分からなかった。
 お金のことを心配している彼女がけなげで彼女に申し訳なかった。
「阿秋、お金のことなんか気にしなくっていいよ。そんなのどうにでもなるから。それより阿秋の体のことが心配なん
だ。」
「阿秋、とりあえず病院いってみようよ。」
 僕は電話帳をしらべた。
”さ・ん・ふ・じ・ん・か”嫌な響だった。こんな形でここを訪れるなんて、夢にも思わなかった。
 連休中だったので祝日も診察してくれる病院をさがした。電話帳の広告に眼を通すと祝日も診察しますと書いてある
病院を見つけた。そのページを手で切り取ると僕は彼女と、涙で湿っぽくなってしまった部屋を出た。




 僕は二部の大学に通う学生だった。彼女はマレーシアからの留学生で国立大学の大学院生だった。
 僕たちは3年前にアルバイト先のピザ屋で出会った。
 そのころ僕はサラリーマンだったのだが、会社に内緒で週に何日かはここでアルバイトしていた。ちょうど独り暮ら
しを始めたころで、何かと出費がかさみ、少しでもお金を稼ぎたかった。
 彼女はまだ大学二年生だった。
 最初、僕たちはそれぞれ違う店で働いていた。
 そのピザ屋は横浜に2店舗しかない小規模経営の店だった。
 僕は子安店で働いていて、彼女は三ッ沢店で働いていた。
 彼女について、そのとき知っていたことはマレーシア人で留学生であるということだけだった。彼女の顔は知ってい
たが、店が違うこともあり、まだ僕は彼女と会話したことが無かった。
 僕と彼女が親しくなったのは、二店舗合同でアルバイトのみんなと閉店後、ドライブにいったときだった。
 その日僕たちは横浜から三浦半島の城ガ島を目指して国道16号をはしった。数台の車とバイクが深夜の国道を勢い
よく通過していく。暴走族のような爆音もなく自分勝手な走りで交通ルールを無視することもなく、ただ皆とつるんで
走るのが楽しかった。僕も含めて、みんな若かった。
 そのころ僕は軽自動車に乗っていて、僕の車は、一足早く目的地である城が島の駐車場に着いた。
 駐車場には何台かもうすでに、たどり着いていた。そのなかに、彼女の乗っていた車があった。
 彼女は車から降りて、駐車場の隅の自動販売機の前で退屈そうに座っていた。
 僕は彼女の横に腰掛けた。
「こんばんは。」
彼女はきょとんとしていた。
「李さん、俺のこと知ってる?」
「北山さんですよね。」
「あ、よかった知っててくれて。」
 彼女とは一度、店のアルバイトみんなでカラオケにいったことがあり、そのときに僕のことを知ったらしかった。
 僕は彼女とは店が違うので、一緒に仕事をしたことがなかったのだが、一度話してみたいと思っていた。
 それまで僕は外国の人と言葉を交したことなど一度もなかった。
 彼女がマレーシア人であることは前から知っていたので彼女と、日本とマレーシアについて話したいと思っていた。
 僕は彼女に積極的に話しかけた。
「日本語うまいね。」
「そうですか、でも日本人と話すと緊張するの。」
 彼女の日本語はまだ、おぼつかなかったが発音には外国人的な、なまりも無く非常に上手だった。 
「マレーシアから来たの?マレーシアって一年中暑いんだよね。日本の夏よりあついの?」
「うんう、日本の夏のほうがあつい。マレーシアは蒸し暑くないから。」
「そうだね、日本は蒸すからね。」
「マレーシアの人はみんな辛いもの食べるの。」
「辛いの嫌いな人もいるよ。」
「李さんは辛いもの好き?」
「大好き、北山さんは?」
「俺も大好きなんだ。日本料理は食べた?。」
「すしたべたよ。」
「すし、好き?」
「大好き」
「じゃあ今度いっしょに食べにいこうよ。」
 僕は彼女といろいろな話しをした。日本のことやマレーシアのこと、大学のこと、アルバイトのこと。
 彼女は本国からの仕送りをもらっていないと言った。
 彼女は自分の国を離れて、物価の高い日本でアルバイトしながら勉強している。
 彼女の弟も日本に来ていて、いまは日本語学校で勉強していると言うことだった。しかも彼女は弟に自分のアルバイ
ト代を分けてあげているらしかった。
 彼女のそんな姿が、素敵だった。もし仮に僕が彼女の立場だったら、そんなふうにはできないと思った。とってもや
さしい人なんだと思った
 日本人と話すと緊張すると言っていた彼女も、だんだん打ち解けてきた。
 みんなの車やバイクが全員集まった。駐車場は車とバイクのエンジン音と、みんなのはしゃぎ声で騒がしかった。
 もっと彼女と話したかったのだが、再び横浜に帰ることとなった。
 僕はもっと彼女と話しがしたかった。思いきって彼女の電話番号を聞いた。
「李さん、今度電話してもいいかな。」
「うん、いいよ。」
 彼女はためらわず、快く教えてくれた。
 きっと彼女も、僕ともっと話したかったんだと思った。
 それから数日後、僕は彼女に電話した。そして彼女をデートに誘った。もうすぐテストなので、テストが終わってか
らならよいと言ってくれた。
 あの日のドライブから僕たちのドラマは始まった。


 僕は彼女とつきあうようになって、いろいろと考え方が変わったし、知ることができた。
 彼女と出会う前は、すべて日本という概念の中でしか物事を考えていなかった。それしか知らなかったし、それが当
り前だと思っていた。
 僕は、一つの国には一つの民族が存在して同じ言語を用いるのが普通だと思っていた。 もちろんアメリカのような
多民族国家が存在することは分かっていたが、マレーシアのように同じ国籍の人同士でもお互いの言葉が通じず、異な
る文化、宗教を持っていることが不思議だった。 
 また日本の常識は外国の常識と違うこともわかった。
 国が違うのだから、生活習慣や文化が異なるのは当り前だと分かったつもりではいたのだが、彼女から聞いて始めて
気が付いた事も多かった。
「なんで日本人は車が来ないのに横断歩道の前で待っているの」
と彼女が赤信号の横断歩道で、僕に尋ねたことがあった。
 僕にしてみれば赤信号で止まることは当り前のこととして生きてきた。彼女にしてみれば、信号が赤とはいえ車が来
ないのになんでまってるの?と言うことなのだろう。
 彼女は日本の電車の時間の正確さや、狭い駐車場に車を出入りさせる日本人の運転技術におどろいていた。
 僕も彼女の魚の焼き方におどろいた。ある日彼女に鯵を焼いてもらったときに、彼女はフライパンに油をしいて焼き
始めたことがあった。普通の日本人だったら網の上にのせて焼くと思うのだが、彼女にしてみれば、魚を油をひいたフ
ライパンで焼くことは、当り前のことなのだろう。
 こんな些細な発見が新鮮で楽しかった。
 彼女と僕は国籍は違うが、それをハンデに感じることは一度もなかった。むしろ、知らない何かを得られることの方
が多かった。
 僕は高校卒業後、一度社会人になったのだが彼女と出会い、僕も大学に入学したいと思うようになった。そして、僕
は二十五歳にして大学生になった。
 世の中は学歴社会だと言うことは、会社に入ってよく分かっていたし、自分自身、大学生にあこがれていた。
  彼女と出会ったころ、いろいろな留学生の人ともいろいろ知り合えた。
 彼等のほとんどはアジアから来た人達で、年齢も二十代から三十代とさまざまだった。 日本に留学に来るぐらいだ
から、裕福な人達ばかりなのかなと思っていたのだったが、そうではなく、仕送りなど無く、アルバイトや奨学金だけ
で物価の高い日本でがんばっている人ばかりだった。
 彼女もその一人だった。
 僕は彼等と知り合い、お金がなくても、歳をとっていても大学には入れるし、そんなのどうにでもなるんだと感じ
た。
 そして社会人入学という制度があることを知り、何校か受験して入学できた。そして無事に卒業したら、いずれは彼
女といしょにマレーシアで暮らしたいと思っていた。
 それまでに僕自身も彼女の母語である中国語を少しでも話せるようになろうと思っていた。
 それがこんなことになるなんて・・・・。


 現在僕たちは、お互いに学生である。
 今の僕たちに子どもを養っていくことなどできるはずがない。それに彼女の両親は、僕と付き合っていることすら知
らなかった。
 僕たちは将来結婚したいと思っていた。
 彼女の両親にはいずれは言わなければならないことだと思っていたのだが、彼女の両親が反対することは分かってい
たので今は黙っていた。
 それが、遠い異国の地で娘が妊娠してしまったことを突然聞いたらどう思うだろう。そのことを考えると、このまま
二人だけの秘密にしておいた方が一番よいのではないか。そのほうが、彼女のゼミの友人や、先生にも知られずに、ま
たもとの生活ができるのではないだろうか。
 
 
 僕たちは、祝日も診察しているという産婦人科に向かおうとしていた。
 僕たちは部屋の外に出た。空は青く、初夏を思わせる暖かい日だった。
 僕はアパートの階段の下にとめてあるバイクにキーを差し込んだ。そして道路に引っぱりだしてエンジンをかけた。
 思えばこのバイクで彼女といろいろなところにいったっけ。いつも彼女は僕の後ろに乗って僕につかまっていた。彼
女の温もりが僕の背中に伝わってくる。素直に幸せだと感じていた。
 この先僕たちはどうなるのだろう。あのとき感じていた気持ちは、これからも感じることができるのだろうか。僕は
ふと思った。
 エンジンは徐々に暖まり、いつものリズムで鳴りだした。
 僕はバイクにまたがり、彼女を後ろに乗せた。
 「とりあえず病院にいってみよう。」とつぶやいた。
 僕はギアをローに入れた。いつものように彼女を気づかいながら、ゆっくりと発進した。
 五月の快晴の空の下で、スズキボルティーは、いつもと違う二人のブルーな気持ちを乗せて走り出した。


 その産婦人科は区役所の隣の雑居ビルの2階にあった。切り取った電話帳の紙切れに書いてあった地図を見ながら、
バイクをゆっくりと走らせた。その病院は少し走っただけで見つかった。
 僕の部屋を出発してから、約30分たっていた。ここにたどり着くまでの間に、何度も後ろを振り向き、彼女の様子
を確認した。
 彼女は僕の背中に掴まったまま、一言も話さなかった。きっと一人でいろいろなことを考えていたに違いない。
 「阿秋、大丈夫?」
と何度か聞いたのだが、
「うん」
と、ただうなずくだけだった。
 病院があるビルの前には白衣を着た看護婦らしき人と、今退院したばかりと思われる中年の女性が、子どもを抱えな
がら嬉しそうに話しをしていた。
「子どもが生まれるってことは、本当ならとっても幸せなことなんだよなあ。本当なら・・・・」
 僕は思った。きっと彼女もそう思ったにちがいない。でも僕たちは今この病院に子どもをおろしに来たんだ。自分の
子どもを殺してもらうために。


 その人達の前をゆっくりとバイクは通りすぎた。そしてやがて、その道は行き止まりになっていた。
 僕たちはそこにバイクを止めた。
 僕の時計はもうすぐ十二時だった。
「阿秋、もうすぐ十二時だから、病院昼休だよ。飯でも食べようか。」
 こんな状態で彼女も食事どころじゃないとは分かっていたが、とりあえず聞いてみた。
「そうね、何食べようか。」
彼女は答えた。
 僕は彼女の手をにぎりしめた。僕たちは駅前の商店街に向かって歩き出した。
 商店街までは目と鼻の先だった。車がやっと一台通れるくらいの道幅に商店街は続いている。僕たちはどんな店があ
るか一通り見て回った。
 朝から何も食べていなかったのだが、この時ばかりは、さすがの僕も食欲がなかった。
 僕たちはとりあえず、空いていたラーメン屋に入った。
 昼飯時だっていうのに、その店はずいぶん空いていた。僕たちは、入り口からはいってすぐ、左側のテーブルに座っ
た。
 その店は4人掛けのテーブルが左右に3卓ぐらいあり、若いウエイトレスは暇そうにテレビを見ていた。
 僕たちに気がつくと、すぐに
「いらしゃいませ。」といって水の入ったグラスを持ってきた。
 とりあえずメニューを見たが、メニューの中身なんてどうでもよかった。
 僕は素早くラーメンを注文した。彼女はいつものように、みそラーメンを注文した。
 彼女はさっきよりも冷静さを取り戻していたが、まだ目は赤く、はれていた。
「豊、本当に妊娠しているのかな?」
 彼女はうつむいたまま、僕に尋ねた。
 僕も彼女も、あの妊娠検査薬の判定を完全に信じてはいなかった。もしかしたら、あの妊娠検査薬が、何らかの原因
で間違った結果を僕たちに知らせてしまったのかもしれない。あるいは間違った検査方法で使っていたのかもしれな
い。そんな可能性もわずかに残っていると信じていた。
 そのときの僕たちは、今起こっていることを完全に受け止められずにいた。気持ちのどこかで、そうだったらいいな
って思っていただけなのかもしれなかった。
「どうなのかな、もしそうだったらいいね。」
 僕はただ心からそう思っていた。
 ラーメンが運ばれてきた。
 僕たちは一言も言葉を交さずに、ラーメンを食べた。
 味も匂いも感じられず、ただ長い麺を口に入れているだけだった。
「もういらない、豊食べる?」     
彼女は、半分くらい食べたところで僕に聞いてきた。いつもなら喜んで食べるというところだが、今は違っていた。
 結局僕たちは、ラーメンを残したまま、その店を出た。

 僕たちは商店街を抜けて、近くの川沿いの道を歩いた。時計はまだ十二時半ぐらいだった。そして道の脇にあるベン
チに座った。街路樹が真昼の太陽の陽射しを和らげていた。
 僕たちの間に笑顔は無かった。
「阿秋、進藤さんに聞いてみようかな。」
「なにを?」
「進藤さんの奥さんは、前に中絶したことがあるらいいから。」
「そうなんだ。」
 進藤さんは僕のサラリーマン時代の先輩でちょっと前に奥さんと別れ、今は新しい女性と再婚していた。
 進藤さんとは何度か一緒に、お花見や、バーベキューをしたことがあったので、彼女もよく知っていた。
 進藤さんは今の奥さんが、以前、前に付き合っていた人の子どもを中絶したことがあると僕に言ったことがあった。
 こんな話しはあまり人に知られたくないことだと思うのだが、進藤さんは、自分から僕に話してくれた。そういった
ことを気にしない性格なので、僕は気兼ねなく彼に電話することにした。
 僕は携帯電話を取り出し、メモリーしてある彼の電話番号を押した。


「もしもし、進藤さん。」
 電話口には進藤さんが出た。口をもぐもぐさせて何かを食べているらしい。
「おう、北山か、何だよ、どうした。」
「進藤さん、あのさ、実は相談したいことがあるんだけど。」
「なんだよ。」
「あのさ、子どもができたんだ。」
「おー、そうか、おめでとう。」
 進藤さんは、あまり驚かずに言った。本当に、そう思っているのか、からかっているのかは、わからなかった。
「いや違うんだ、おめでとうじゃないんだって。」
「なにが?」
「実はさ、おろそうと思うんだけど。」
「なんでだよ。」
「いや、生みたいのはやまやまなんだけどさ子どもなんか今育てられないしさ、彼女の親聞いたらすごいことになるし
さ・・・・。」
「そうか。ちゃんと検査したの?」
「薬局でさ、妊娠検査薬買ってきて調べたんだけど、陽性だった。どうしたらいいのかなあ。」
「じゃあ、とりあえず病院つれてけよ。」
「降ろすのってさ、いくらかかるの?」
進藤さんは奥さんを呼んだ。電話の向こう側の声が全部聞こえてくる。
「だれ、北山くん?」
「北山がさ、子どもおろしたら、いくらかかるか聞きたいんだってよ。」
 彼女に電話が変わった。
「もしもし。北山くん?」
「うん、突然ごめんね、あのさ阿秋が妊娠しちゃってさ、それで今は生めないからさ。おろしたいんだけど子どもおろ
すのっていくらかかるのかな?」
 彼女は、僕の質問にちゅうちょすることなく、教えてくれた。
「病院によってとか、妊娠の期間で全然違うみたいだけど、私のときは20万くらいだったよ。」
「そうなんだ、手術ってさ、すぐ終わるの?」
「うん、すぐ終わるよ。その日のうちに帰れる。」
「そうなんだ、入院とかっていらないんだ。」
 進藤さんの奥さんはとても明るく答えてくれた。
 彼女も中絶したときは、ショックで落ち込んだのだろうか。彼女にとって、いやな出来事であると思うのだが、こん
なに明るく親切に教えてくれるとは思わなかった。


 僕は電話で聞いたことを全部、ベンチに座っている彼女に話した。
「そうなんだ。」
と言ってから、彼女はただ黙って聞いているだけだった。
 時計はもうすぐ1時になろうとしていた
 診察までの時間は、ゆっくりと確実に近づいていた。
 僕は彼女の手を取り、彼女をベンチから立たせると、そのまま手をつないで、ゆっくりと歩き出した。
 初夏の真昼の陽射しが街路樹の隙間から少しだけ漏れていた。
 病院まで僕も彼女も、何も話さなかった。


 病院が見えてきた。その産婦人科は雑居ビルの二階にあった。一階に看板が置いてあった。そのすぐ横に入り口があ
り、階段になっていた。
 僕たちは、ゆっくりと階段を上った。
 重いガラス戸を手前に引くと小さな玄関があり、そこでスリッパにはきかえた。
 そこは普通の病院とは雰囲気が違った。病院独特の重苦しい空気は感じられず、なんだか優しい空気だった。
 ここに来る人のほとんどは、幸せなんだよな。まさか自分がこんな形でここを訪れることになるとは思いもしなかっ
た。
 入ってすぐ右側に受け付けがあった。
「すいません!」
 何か書類を記入していた女性の人が、頭を上げた。
「あの、妊娠したみたいなので検査してほしんですけど。」
 彼女は小さな声でささやくと保険証を受け付けの女性に差し出した。
 受け付けの女性は、一枚のかみを彼女に渡すと、極めて事務的に
「これに記入して出してください。」
と言った。
 僕たちは、受け付けの横の待合室のソファーに座って、渡された紙を広げた。
 その用紙はアンケートになっていて、いままでかかった病気や、初潮の年齢、最後の生理の日、今日の診察の目的な
ど、細かく質問
事項がならんでいた。
 彼女はゆっくりと記入しはじめた。最初の質問には、スラスラと記入していた彼女であったが、最後の質問である”
今日の診察の目的”と言う欄にきて手が止まった。
「豊、ここなんて書けばいいの?」
 彼女は僕に聞いた。
 僕は少しためらった。僕たちがここに来たのは、子どもをおろすためだ。ここに記入するってことは、僕たちが決断
したことになる。
「おろすしかないよね。」
 僕は彼女に確かめた。
「うん。」
 彼女は静かにうなずいた。
 今の僕たちに子どもは育てられない。それが僕たちの出した結論だった。
 僕はゆっくりと彼女に言った。
「妊娠しているみたいなので検査してください。もし妊娠しているなら中絶します。」
彼女は僕の言ったことをそのまま記入していった。
 彼女は記入し終わった紙を受け付けに提出した。


 待合室には他に4、5人の人がいた。この人達には僕と彼女はどう写っているんだろう。仲のよい夫婦にでも見える
のだろうか。それとも、子どもをおろしに来た哀れなカップルに見えるのだろうか。
 しばらくして彼女は呼ばれた。彼女はソフ
ァーから立ち上がると僕の顔を見つめた。
「いってくる。」
 彼女はゆっくりと診察室に歩きはじめた。
 彼女は看護婦さんに案内されて、診察室の中に消えた。

 彼女が診察室に入ってからもうどれくらいたっただろう。まだ彼女は出てこなかった。
 僕は中で、何が行われているのかが気になった。
 しばらくして診察室のドアが開いた。しかしそこに彼女の姿はなく、中年の看護婦さんが立っていた。
「あなたが、李さんの相手の方?」
「はい。」
「中にお入りください。」
 僕は看護婦さんに導かれ、診察室に案内された。
 診察室の中は静まり返っていた。その部屋には、いろいろな診察器材が置いてあった。 そして奥の方に仕切りがあ
って、先生の机が置いてあった。彼女は先生と向き合うようにして座っていた。
「そこに座ってください。」
先生が言った。
 僕は彼女の隣に用意された丸い椅子に座った。
 三十代ぐらいの少し太った先生は僕の目をじっと見つめると、表情を強張らせ話し始めた。
「結論から先に言わせてもらうと、彼女は妊娠しています。妊娠三か月です。」
 僕はとうとう逃げ場を失った。”もしかしたら違うかもしれない”心のどこかで思っていた希望は消え失せた。もは
や現実を素直に受け止めるしかなかった。
 机の上には、彼女の体内を写したと思われる白黒の写真があった。彼女の子宮の中に、小さくて黒いものが写ってい
た。
 先生はさらに続けた。
「彼女は中絶してくださいと言っていますが君は知ってるの?」
「はい。」
「どうして中絶するの?」
「・・・・・・・・・・・。」
「中絶って何か知ってるよね。」
「はい。」
「はっきり言えば人殺しだよな!君達は人を殺してくださいってここに来たわけだ。」 
 彼女は隣で声を出して泣き始めた。僕以外の人の前では決して泣かない彼女であったがこのときばかりは、湧き出る
感情を押さえきれなかった。
「君は社会人か?」
「いや、学生です。」
「学生だからって中絶していいの?」
「人殺ししてもいいの?」
「・・・・・・・・・・・・。」
「中絶ってできると思う?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「人殺しできると思う?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「人殺しなんかできるわけないじゃない。なぜだかわかるよね。悪いことだから。違法だから。よくさテレビとかやっ
てるよね。あんなのみんな嘘だから。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「どうしたら子どもができるか知ってるよね。そのことをわかっていて君たちはしたんでしょ。

「はい。」
「だったら責任とりなさいよ!子どもをつくるのも、つくらないのも君たちの自由だ。つくりたくなかったら避妊すれ
ばいいんだから。でも子どもを生むか生まないかは、君たちの自由じゃない。」
 先生はかなり強い口調で僕を責めたてた。もちろん先生が言ってることは正しいと思うのだが、今の僕たちにはどう
することもできなかった。
 どれくらい先生は僕たちに説教していたんだろう。時間にして約30分ぐらいだったろうと思うのだが、とても長い
時間に感じられた。
 結局、今回だけということで手術の手続きをした。中には二度三度中絶を繰り返している人もいるらしく、そういう
人達の気が知れなかった。
 僕たちは誓約書にサインした。それには手術によって、子どもが生めない体になっても病院側は一切責任を追わない
というものであった。若干の心配はあったが、僕たちはサインすることを溜めらわなかった。
 診察が終わると受け付けで、手術の予約をした。手術の前日も手術の準備のために病院に来なければならなかった。
 彼女は連休が終わる前にことを済ませてしまいたかったので、手術は三日後を選んだ。
あさっての午後三時に、もう一度ここへ来なければならなかった。
 彼女はもう泣き止んでいたが、目はまだ赤かった。待合室で待っていた人がこっちを見た気がした。
 僕たちは予約を済ませると、素早くその場を立ち去った。

 
 すべてがはっきりした。今は僕たちがおかれている状況をまっすぐ見るしかなかった。
 時間が過ぎればこの傷は癒えるのだろうか?そうであってほしかった。もしそうだとしたら、連休が終わるころには
少しだけ今より楽になるだろう。
 僕たちはバイクにまたがり、その病院を後にした。


 僕の部屋に向かっていた。彼女を気づかい
終始安全運転だった。
 僕たちはお互いに言葉を交さなかった。僕の背中で、彼女は泣いていた。最初は声を殺していたが僕はすぐにわかっ
た。彼女の気持ちを考えると、とても辛かった。
 彼女は泣き声を押さえきれなかった。声はだんだん大きくなり、僕のT シャツをつかみながら、さらに激しく泣い
た。僕の背中に彼女の涙が染みてきた。
 僕は考えていた。
「僕たちが選択した道は間違っているのだろうか・・・・。」
 こんなに嘆き悲しんでいる彼女を見るのは初めてだった。
 今の彼女が笑えるまでにどれくらい時間が必要なのだろうか。中絶という過去を背負った彼女に、再び笑顔は訪れる
のであろうか。
 もしかしたら、その深い傷は時間だけでは解決できないかもしれない。
 もしこのまま子どもをおろしていまったら2度と彼女の笑顔には合えないような気がした。僕たちから笑顔が消え
て、やがて僕と彼女の歯車は錆び付き、壊れて、かみ合わなくなるだろう。
 もしも仮に、時間がうまいこと、この傷を消し去り、やがて僕たちが結婚したとしても子どもができたときに、否応
無くこの出来事を思い出すだろう。
 その度に彼女の背負った傷口は新しくなり時間がいくら過ぎようとも傷口はふさぐことができないような気がした。
 僕は彼女とは別れたくない。僕は彼女を愛していた。彼女といっしょにこの先も歩いていきたい。彼女と同じ時間を
過ごしていきたい。これが今の僕の気持ちだった。
 結局、安易な結論は自分たちを苦しめる結果になってしまう。
 自分たちのとった行動に責任を取るということは、子どもを産んで育てていくことなのだろうか。
 もし、子どもを産むことにしたらどうなるだろうか。僕は真剣に考えてみた。
 彼女の両親はきっと激怒するだろう。結婚もしていないのに子どもができたということ
を聞いたら、とてつもない大きなショックを受けるだろう。
 実は僕は去年の夏休みに、マレーシアの彼女の家を訪れた。彼女の弟が帰国していたので、そのとき僕は彼女の彼氏
ではなく、彼女の弟の友達と言うことで彼女の両親に一度会っている。
 少しは後ろめたい気持ちもあったのだが、彼女の育った家や街を知ることができた喜びの方が大きかった。
 彼女の両親は僕にご馳走してくれたり、バスターミナルまで送ってくれたり、いろいろ親切にしてくれた。
 僕は日本語しか話せないので、あまり会話はできなかったが、みんなの優しい気持ちは理解できた。
 彼女の両親は、彼女の妊娠を知ったら僕をろくでなしだと思うだろう。将来、僕の父と母になってもらいたい人を僕
は裏切ることになってしまう。僕は胸が痛んだ。
 僕の両親はきっと分かってくれるだろう。
一度、阿秋にも会っているし、いままで僕にああしろ、こうしろって一度も言ったことなんてなかった。いつも僕のや
りたいようにやらせてくれた。
 彼女の先生や友達はどうだろうか。
 彼女は教育学部で児童心理学を学んでいた。児童心理学の先生が子どもをおろせとはいわないだろう。きっと分かっ
てくれる。友達だって、きっと応援してくれる。
 経済的にはどうなんだろう。いまの二人に、子どもを養っていく力はあるのだろうか。現在の僕の生活は確かに楽で
はないが、彼女と二人で力を合わせればなんとかなる。
 いざとなれば僕が大学を中退して働けばいい。方法はいくらだってあるはずだ。
 実際、僕の友達にも少ない給料をやりくりして、奥さんと子どもを養っている人が何人かいた。それだったら、僕に
だってできるはずだ。
 彼女の両親だって彼女がどうしても産むといったら、それを覆えすことはできないだろう。
 僕は中絶じゃなく、子どもを産んでしまうという解決方法を真剣に考えていた。これなら彼女も悲しまずに済むかも
しれない。
 彼女はこのことをどう思うのだろう。
 街は昼間から夕方に変わろうとしていた。僕はバイクに乗りながら、ずっと考えてた。
 超えなければいけない障害はたくさんあるが、それを乗り越えれば僕たちは、きっと幸せになれる。僕たちは愛しあ
っている。どんなことがあっても二人で頑張ればなんとかなるだろう。
「僕は自分の子どもを殺したくない。僕と彼女の子どもじゃないか。殺せやしないよ。こっちの方が正しいに決まって
る。」
 僕の目が潤んできた。安易な選択で子どもを殺してしまおうとした自分が恥ずかしかった。
「彼女と生まれてくるこどもを絶対に幸せにしたい。」
 僕の気持ちは固まった。僕の部屋にたどり着いたら彼女に打ち明けよう。彼女だってそうしたいんだから。
 目から涙がこぼれ落ちた。ゴーグルの隙間から漏れた涙が僕の頬をつたっていく。僕は涙を拭かなかった。濡れた頬
に街の風が冷たかった。
 いつかは笑える日が来る。僕も彼女も、いつかきっと必ず。
 
 街が少しだけ暗くなっていた。僕は重い空気がつまった部屋のドアを開けた。
 彼女はもう疲れきっていた。僕と話すことさ苦しそうに見える。
 僕は思いきって、さっき僕が思ったことを彼女に打ち明けた。
「ねえ阿秋、子ども産もうよ!」
「ん・・・」
 彼女は聞き取れなかったらしく、疲れた顔で、もう一度僕に聞き返した。
「俺たちの子どもを産もうよ!」
 彼女は僕の顔をじっと見つめた。
「もうおろすのやめよう。俺と阿秋の子ども、殺したくないんだ。」
「阿秋、阿秋は俺のことが好き?」
「好き!」
「俺たちの子ども、産みたいだろう?」
「本当は産みたいの。豊と私の赤ちゃん 殺したくないの!」
 彼女はだんだん涙声になっていった。
「じゃあ産もうよ。俺と阿秋の子ども産もうよ。」
「でも、今豊も学生だし、経済状況も良くないでしょ。」
「そんなの阿秋と俺が頑張ればなんとかなるよ。だめだったら大学辞めるよ。」
「だめ!豊、大学だけは辞めないで。豊せっかく入ったんだから、赤ちゃんのために、阿秋のために、がんばって卒業
して。」
 彼女は僕が大学を卒業することを強く望んだ。それは将来、僕がマレーシアに住んだときに大卒の方が仕事を探しや
すいし、彼女の両親も納得してくれるだろうと思っていたからであった。僕も本当は中退なんかしたくなかった。一度
決めたことを途中で投げ出したくなかった。
「分かった。頑張って卒業する。学校辞めなくても俺と阿秋が頑張ればなんとかなるよね。」
「豊!」
 彼女は泣きながら、僕の胸に飛び込んできた。僕も彼女を抱きしめた。
 そのときの彼女の涙は今までの涙とは違っていた。硬かった彼女の顔が少し和らいだ気がした。
 僕は彼女の体を起すと唇にキスをした。彼女の目から溢れた涙は頬をつたい、僕の頬も濡らした。
「阿秋、愛してる。俺たちがんばろう、これから。」
「うん。豊、ありがとう。」
 僕たちには解決しなければならないことがたくさんあったが、子どもを産むことに決めた。そう考えたら、なんだか
気持ちが楽なった。彼女も前よりも元気になった。
 でも正直言って不安でいっぱいだった。彼女はもっと不安だったと思う。
 僕たちの試練はこれからだった。


 僕たちは次の日に産婦人科に電話した。
 僕たちは子どもを産むことに決めたと話すと電話にでた女性は
「よかった、がんばってください。」
と言ってくれた。きっと昨日の受け付けの女性だったのだろう。
 僕たちはこれから問題の山を一つづつ解決していかなければならない。そう思うと気が重かったが、これが責任を取
るということなのだろう。
 夕べは疲れきっていたので何も考えずに、すぐに寝ることができた。彼女も泣きすぎて疲れたのだろう。布団に入る
とすぐ寝てしまった。僕は彼女の寝顔を見ていた。気がつくと窓の外は明るかった。 
 昨日、僕たちの考えが決まってから、彼女は親友に電話した。彼女と一緒に日本に留学した、同じ高校のクラスメイ
トの中の一人だった。会話は中国語だったので僕には何を言っているのか僕には理解できなかった。彼女は時折、涙声
になっていたりもしたのだが、一番親しい友人に打ち明けたことで、少しは気が楽になったのだろう。
 彼女は電話で随分励まされたみたいだった。
「豊、唖玲がね、阿秋がんばれって、私と一緒に泣いてくれたの。」
 彼女は嬉しそうに僕に話してくれた。彼女の笑顔を再び見れるのも遠くないと思った。 僕は彼女を信じている。 
 


「豊、私、大学院やめる。」
 彼女は昨日と違った強い口調で僕に言った。僕もそのことをどうするべきか考えていた。
 子どもが生まれると、いずれ彼女のお腹は大きくなるし、子どもの世話もしなければならない。そう考えると彼女が
大学院に通うことは非常に困難ことのように思えてきた。彼女が辞めるのも止むを得ない。
 もともと彼女が大学院に入学したのは別に特別な研究目的があったわけではなかった。 僕がまだ大学一年生だった
ので、僕が大学を卒業するまで日本に居るためだった。
 それに随分、卒業論文で苦労していた。とくに去年の末から今年の始めにかけて、締切を一月末に控えて彼女は最後
の追い込みをしていた。
 僕の部屋に来たときも必死でワープロに向かっていたのを覚えている。真夜中に泣きながら僕に電話したこともあっ
た。もう出来ないって、何度僕に言ったか分からない。
 彼女は本当は勉強なんかもうしたくなかったんだと思う。いつも僕に、将来は専業主婦になりたいと語っていた。
 彼女のその言葉には強い意志が感じられた。
「できれば大学院を続けてほしい。」
 僕はそう言いたかった。せっかく入学したのに途中で投げ出すなんて良くないと思った。それに何よりも、子どもが
できたことを中退の言い訳にしたくないと思ったからだった。
 でも彼女の気持ちはよく分かっていたし、現実を考えたらそれは口に出せなかった。
「まず、阿秋の先生に相談した方がいいよ。先生はきっと何かいいアドバイスくれるからさ。阿秋の力になってくれる
よ。」
「そうだね・・・。」
 彼女は小さな声でつぶやいた。


 僕たちは近くの市立病院に足を運んだ。
 今度は子どもを殺すためではなく、丈夫な赤ちゃんを産むためにやってきた。
 入り口を入ってすぐのホールは人でいっぱいだった。まるでラッシュの横浜駅みたいだった。
 僕たちは、受け付けに保険証を出した。
 しばらくして彼女の名前が呼ばれ、そこで用紙を渡された。僕たちは産婦人科のフロアのイスに座りながらそれに記
入した。
 ここでも昨日いった病院と同じのようなアンケートがあった。
「ここで出産しますか?」
 この質問に僕も彼女も、もう迷わなかった。
 そのフロアにはお腹の大きい人が沢山いた。産婦人科のパネルを見なくても、ここが産婦人科だってことは、誰だっ
てすぐわかるだろう。
 彼女もそのうちに、あんなにお腹が膨らんでくるのだろうか。あのお腹のなかに人間が入っていると思うと何だか不
思議な感じがする。彼女のお腹の中では今、僕の子ども作られているんだ。僕も彼女も母親のお腹の中でこうやって育
ったんだ。
 あたりまえのことのように思っていたけれど、考えてみるとすごいことだと思う。何だか女性の人がとっても偉く思
えた。そして僕は改めて命の尊さを感じることができた。
 看護婦さんが彼女の名前を呼んだ。彼女はイスから立ち上がると診察室に入っていった。
 僕は彼女のいないイスに座ったまま、これからのことを考えていた。
 容赦なく押し寄せてくる優鬱な気持ちを、これから生まれてくる僕のこどもの顔で吹き飛ばしていた。
 彼女は妊娠が確認されると妊娠初期検査として血液型や肝炎、梅毒、HIV抗体等の検査を受けた。彼女の尿と血液
が採取された。
 すべての診察が終わるまでに一時間ぐらいかかっていた。
 診察を終えた彼女は僕に予定日は十二月二十六日だと教えてくれた。
 最後に僕たちは十二月に入院できるように病室を予約した。今から入院の予約を取っておかなければ十二月に入院で
きない可能性もあると言うことだった。
「俺はもうすぐ父親になるのか。」
 僕はなんだか照れ臭かった。僕の父も僕の誕生を知ったときに、こんな気持ちになったのだろうか。
 僕の中に、だんだん父親としての自覚が芽生えつつあった。確かにそれは、まだ発芽したばかりの幼い芽であるが、
彼女のお腹のように、少しずつ成長していくのだろう。僕自身もこの芽を大切に育てていこうと誓った。



 僕たちの運命のゴールデンウイークが過ぎ去った。
 彼女はこの数日間、彼女の弟やゼミの友人などに電話で自分の妊娠を打ち明けた。最初は中絶しようと思ったこと
や、僕と二人でよく考えて結局産むことにしたことを切々と語っていた。
 みんな最初は彼女の妊娠にびっくりするが、最後は彼女の決意が分かると”おめでとう、がんばって!”といってく
れた。
 

 僕も彼女も学校が始まった。そして僕のアルバイトも再び始まった。
 僕の心はまだ完全に元気にはなれなかった。彼女の学校のことや彼女の両親のことを考えると気が重くなってしま
う。僕の両親にもまだ言ってなかった。
 彼女は今日、彼女の先生に相談すると言っていた。はたしてどんな答えが返ってくるのだろうか。きっと相談に乗っ
てくれるとは思っていたが、正直言って心配だった。
 僕はいつものようにアルバイトに向かった。空は僕の心とは裏腹に鮮やかな五月晴れだった。


 僕は暗い部屋の中にいた。授業を終えて帰ってきたばかりだった。僕は実家に電話しようか迷っていた。なんて両親
に言おう。それを考えていた。
 僕の両親は阿秋のことは知っていた。丁度一昨年のゴールデンウイークに彼女をつれて実家に帰ったからだ。
 僕が彼女を連れて帰ると言ったときは少し驚いていた。僕が高校を卒業してこの家でを出るまでに、一度たりとも女
の子を親に紹介したことなどなかったし、連れていく彼女は外国人だと言ったからだったのだろう。僕の両親も彼女に
会うまでは、随分不安だったのではないかと思う。
 彼女の方もとても緊張していた。高速道路の標識が段々目的地に近づく度に、
「豊、どうしよう。」と言っていた。
 結局、最初は、僕の両親も彼女もお互い一言二言だった会話が時間とともに増えていった。
 両親は彼女の日本語のうまさに驚いていたし、彼女は津軽弁丸出しの両親にとても驚いていた。時折、理解できない
言葉を耳にしては、目を白黒させていた。僕はそんな光景を見て、ほっとしていた。
 僕の両親は彼女が外国人であるからどうのこうの言わなかった。逆にマレーシアはどこにあるんだとか、普段は何を
食べているんだとか、とても興味深く聞いていた。
 父は中国語と日本語の漢字の違いについて一生懸命、彼女に聞いていた。
 やがて父は奥から、父の自慢である一眼レフカメラを持ってきて全員で記念写真を取った。僕はそんな両親の姿に安
心した。
「きっと問題ないだろう。」
 僕はあのときの両親のことを思い出していた。受話器を持ち上げてダイヤルを押した。
「もしもし、北山です。」
 電話には母が出た。
「もしもし、豊だけど。」
「おー、豊だな。どうしてらだば。元気なんだが?」
 久しぶりに聞く母の声だった。
「うん、元気だね。」
「んだが。」
「あのさ実は、阿秋に子どもでぎだんだ。」
「なんだって、子どもでぎたってな。」
「何か月なの?」
「三か月らしんだ。」
「んだが、それでいづ産まれるんだば?」
「12月26日が予定日なんだけどな。」
「んだが。赤ちゃんでぎるのが。」
「それでさ、結婚しようど思うんだ。」
「んだな。阿秋は元気なんだが?」
「元気だよ、すこし悪阻があるらしいけどさ。」
「んだな。」
「そのうち阿秋の親と会うことになると思うんでパスポート用意してほしんだけど。」
「パスポートが、わがった。」
 母はそれほど驚いているようには感じられなかった。
 僕は普段あまり家には電話しかった。何か親と直接話すのが照れ臭かったからだった。 僕は最後にお金を借りるこ
とになるかもしれないといって、電話を切った。僕のアルバイト代では生活するだけで精一杯だったので貯金なんて全
く無かった。もし急にお金が必要になった時には親に頼るしかなかった。きっと僕と彼女の力になってくれるはずだ。
 僕は胸につっかえていた物が少し取れたきがした。僕は部屋の電気をつけた。とてもまぶしかった。僕は煙草を取り
出し、火をつけた。そして思いっきり大きく煙を吸い込んだ。


 僕は彼女に電話した。彼女の先生がなんて言ったのか心配だった。10コール鳴らして電話を切った。彼女は部屋に
はいないようだった。時計はもう夜十時半をまわっていた。
「どこいったんだ。」
 僕はつぶやいた。もしかして先生に怒られたのだろうか。僕は少し不安になっていた。
 僕は煙草をもみ消した。煙が蛍光灯の光の下で揺れていた。
 その時ドアのノブを回す音がした。その瞬間僕の部屋のドアが開いた。彼女が疲れた顔で立っていた。
「阿秋、びっくりしたよ。部屋にいないからさ。」
「ごめんね。部屋に一人でいたくなかったの。」
 彼女は僕に抱きついてきた。僕も彼女を抱きしめた。
「一人でいたくないの。豊に会いたかった。」
 僕は彼女のおでこにキスをした。
「阿秋、先生に相談したの?」
「うん、先生はね、そんなに驚かなかったの。せっかく大学院に入学したんだから最後まで続けてほしいって。彼とも
う一度よく相談して決めてほしいって。」
「そうか・・・・・。阿秋、俺もさ学校辞めない方がいいと思う。やっぱりここで辞めるのはよくないと思うんだ。」
「でも、もう勉強したくない。豊のお嫁さんになる。子どもを育てたいの!!」
「阿秋、でも阿秋の親だって、せっかく入学したから卒業してほしいと思うよ。それに子どもができたからって学校を
やめたらいい顔しないでしょ!。」
「そう、ナミさんもそう言ってた。」
 ナミさんは彼女のゼミのもう一人の留学生だった。
 ナミさんはミャンマー人で日本に来てまだ1、2年だったが流暢な日本語で彼女と話している。
 ナミさんはよく阿秋にいろいろと相談していた。同じ留学生としてナミさんの苦労が良くわかる彼女はいつも親切に
教えてあげた。 ナミさんにとって彼女が大学院を辞めてしまうことは、良き相談相手を失うことであった。
「でもね、やっていける自身がないの。だって、もう少ししたらお腹だって大きくなちゃうし、修論も書かなきゃなら
ないのよ。
 それに子どもの面倒はどうするの?私が授業あるとき、子どもはどうするの?困ちゃうじゃん。」
「先生は続けてほしいって言ったんでしょ!なんとかなるよ、きっと。
 阿秋の修論、俺も手伝うからさ。がんばろうよ。俺たちの子どものためにも。」
 彼女は黙ったまま僕の顔を見つめていた。
 まだ、どう答えを出すべきなのか迷っているようだった。
 その後、彼女は何度も先生と相談したらしかった。先生も彼女をいろいろ気づかってくれていたし、彼女の方も続け
る方向で考えていた。そして最後はがんばって大学院を続けることに決め、先生に打ち明けた。
 先生は研究室のメンバー全員に彼女のことを告白した。最初は研究室のみんなも驚いていたようだが、彼女の出した
結論を優しく受け止めてくれた。
 あとで彼女から聞いたのだが、最初、先生に相談があると言ったときに、結婚するか、妊娠したかのどちらかだと思
ったと話していた。そして相手はどんな人で、どれくらい付き合ってるのかを聞かれたらしかった。
「三年間って聞いて安心した。」
と先生は彼女に言った。
「先生はね、私の日本の母親だと思っているのよ。」
と彼女は言っていた。僕はそれを聞いて安心した。 
「相手の方に一度会った方がいいわね。」
 先生は彼女にそう言った。
 その後、僕と彼女は、彼女の先生といしょに食事をした。先生は彼女を暖かく受けいれてくれた。
 彼女の学校の問題が解決しそうだった。肩の荷が半分減った感じがした。

 
 僕は彼女の妊娠が分かってからも一度も授業を欠席していなかった。
 いつも五時にアルバイトを終えて、すばやく着替えるとバイクで学校に向かった。渋滞の隙間をすり抜けてかなり急
いでも、5時50分がら始める講義にはギリギリだった。
 あの日以来僕は講義を集中して聞くことができなかった。頭の中は彼女の妊娠のことや僕たちのこれからのことでい
っぱいになってしまう。

 僕たちに残された問題は彼女の両親だった。
「彼女は両親になんて話したらいいの?」と僕に何度も尋ねるのだが、僕も何をどのように話していいか分からなかっ
た。結局ありのままに、すべてをそのまま話すしかないのだろう。
 彼女はどうしても自分の口から言い出せず彼女の弟に言ってもらうように頼んだ。
 彼女の弟は大学二年生で東京に住んでいた。僕も彼のことはよく知っていて、一緒にご飯を食べたり、家に遊びに来
たりしていた。
 彼も、彼女の妊娠を聞いたときはすごく驚いていたが、僕たちの選んだ答えを聞くと、すぐに祝福してくれた。僕の
義理の弟になるだろうと思われる彼に、こんなことを頼むなんて心が痛かったのだが彼は快く引き受けてくれた。
 少し前の日本でもそうであったが、一般にマレーシアの華人にとって、結婚前の女性が妊娠することは非常に恥ずか
しいことであった。家族や親戚の絆が強い華人にとって、たとえそれが親戚どうしでも変わりはない。
 もし妊娠が分かったら、お腹が大きくならないうちにすぐに結婚するのが普通らしかった。
 彼は自分の姉が妊娠したことに驚きつつも、産むことに決めた彼女を応援してくれた。彼女と一緒に日本に留学した
クラスメイトも同じだった。
 みんなマレーシアの華人ではあったが、古い考えにはあまりこだわっていなかった。
 だが、彼女の両親が世間体を気にしないはづがはなかった。わざわざ日本に留学させたのに日本人にだまされて子ど
もまでつくったなんて言われるかもしれない。
 僕たちはこれからどうなるのだろう。すくなくとも彼女が子どもを産むと言っている以上、僕と彼女が離れることは
ないだろう。
 でもどんな形であっても彼女の両親を納得させなければ、僕たちは本当の幸せを掴むことができない。
 彼女の両親に何をいったら分かってもらえるのだろうか。心からお互いを分かりあえる日は本当にくるのだろうか。
 

 彼女は僕の部屋にいた。弟からの電話を待っていた。いまごろ彼女の弟はマレーシアの両親に打ち明けているのだろ
うか。そう思うと、ドキドキする。
 テレビは消していた。ただ時計が針を刻む音だけが僕の耳に入ってくる。
 そのとき電話が鳴った。彼女は1コールだけで素早く受話器を取った。案の定、彼女の弟であった。彼は阿秋に中国
語で話していた。 僕にはその会話は理解できなかったが、電話している彼女の様子から厳しいものを感じた。
 彼女の両親は、とにかく彼女に一回家に電話するようにと彼に言ったらしかった。
 彼女は大きくため息をついた。
「電話するしかないよね。」
「うん。」
 僕はゆっくりとうなずいた。
 彼女はゆっくりとダイヤルを押した。
 電話には彼女の母が出たようだった。一部始終、その会話は中国語だったので、会話の内容はよく分からなかった
が、彼女の声が涙声に変わっていき、時折激しく言い争いしていた時もあった。
 僕はただじっと、彼女の横でその会話を聞くしかなかった。僕は、受話器をもってない彼女の右手を両手で握り締め
た。
 約一時間の電話だった。彼女は取り乱していた。
 僕の胸に顔を埋めて大声で泣いた。そして体を震わせながら僕の腕を強く握り締めた。
「阿秋、お母さんとお父さんはなんて言ってたの?」
「なんで、そういう馬鹿なことしたんだだって、兄弟の中で一番成績もよかったのにね、
なんでそんな恥ずかしいことしたんだだって。」
 彼女は涙でなかなか声にならなかった。
「それでね、私が産むといったら、そんなのおろせだって。」
「・・・・・・」
「まだ結婚もしていないのにね、子どもなんか生まれたら親戚じゅうの笑い者だって。
 それに、まだ学生だし経済的にも安定していないのに子どもなんか育てられないって。」
 僕はショックだった。おろせと言われてしまった。
 まだ学生で、アルバイトで暮らしているのは事実だった。彼女の両親にしてみれば、まだ若い自分の娘に、苦労する
結婚はさせたくはないと思うのは当り前のことである。でも何とかして分かってほしい。許してほしい。それだけだっ
た。
 彼女の両親はやはり世間体をかなり気にしているようだった。現在の日本では、いわゆるできちゃった結婚はそんな
に驚くことではないのだが、やはりマレーシアでは通用しないのだろうか。
 僕たちの子どもよりも、世間体が大切だと言った彼女の父を初めはひどいと人だと思ったが、それはそれで、しょう
がないことなのかと思ったりもした。
 それでも彼女の決意は変わらなかった。もちろん僕の気持も彼女といっしょだった。
「きっとあれだよ、お父さんもお母さんも突然聞いたから、あんなこといったんだよ。
 またもうちょっとたってから電話してみようよ。きっと今日の答えとは違ってるよ。」
 その言葉は僕自身が信じたい言葉でもあった。
 そして彼女はあれから何度か実家に電話した。最初のころは両親もおろせと言っていたが、二度三度と話していくう
ちに会話が変化してきた。
 彼女の両親は彼女の固い決意をようやく理解したようで彼女の体を気づかうようになっていった。
「お母さんね、ビタミンとカルシウム、ちゃんと取らないとだめだって。お父さんはね、壁に釘とか打ってはいけない
って。」
 彼女は笑顔で僕に話してくれた。
 妊娠中に壁に釘を刺したりしたらいけないことは前に聞いたことがあった。それは昔の迷信なんだろうと思うのだ
が、中国文化の中にも同じことがあることに驚いた。
「パパ、シエイシェイ。」
 電話で話していた彼女の顔がとても嬉しそうだった。彼女のその笑顔を見て僕も安心した。
 僕たちは、大きな問題をほぼ解決した。妊娠発覚から約一ヵ月が過ぎていた。
 あの日よりもさらに日は長くなり、陽射しは強くなっていた。もう夏はそこまでやって来ている。
 僕と彼女の絆は順調に成長していた。太く長い根を大地に張り、さらに堅く強い大きな幹になっていった。
 僕たちは、これから二人で力を合わせて生きていくことを誓った。
 そして僕たちは一緒に暮らすことにした。たとえ少しでも彼女といっしょの時間を過ごしたかった。会いたい人がい
つも隣りにいてくれる、そんな暮らしを僕はしてみたかった。もう真夜中に彼女に会いにいかなくても君は僕の横にい
てくれる。
 僕が今住んでいる部屋は六帖一間の狭いアパートで彼女の方は寮に住んでいた。彼女がここに引っ越してもよかった
のだが、かなり狭くなってしまうので、新たに部屋を借りることにした。
 部屋を借りるお金は親から借りた。敷金礼金などで、どうしても四十万円くらいは必要だった。いまのこの僕にそん
なお金があるわけなかった。
 電話では言いづらかったので僕は手紙を書いた。家を出てから何度か両親に手紙を書いたことはあったが、お金を貸
してほしいと書いたのは、これが初めてだった。
 数日後、父は何も言わずに僕の口座に50万円振り込んでくれた。僕は親の有り難みを実感していた。


 僕たちは彼女の大学の近くにある古いマンションを借りることにした。大学の門まで三分とかからないので、彼女の
通学には非常に便利な場所だった。
 2DKで六万四千円、この付近にしては安いほうだった。
 彼女と始める新しい暮らしに、僕はとても期待していた。
「ここにテレビ置こうよ。」
「ソファーもほしいね。」
「大きな冷蔵庫ほしいね。」
「あったらいいね。」
二人はまだ何もない空っぽの部屋で、どこに何を置くか考えていた。
「そのうち、この部屋を子どもが走り回るようになるんだろうな。」
 僕は彼女に言った。
「そうね、何だか信じられないね。」
 僕はすごく幸せな気持ちになった。もうすぐ僕にも家庭ができる。
「阿秋、俺たちさ、がんばったよね。俺、自分でそう思うよ。」
「そうだね、あのときさ赤ちゃん、おろさなくてよかったね。おろしてたら私たち今ごろどうしてるんだろう。」
「どうだろうね。俺、あの日さ、病院から帰るとき、ずっと考えていたんだ。もしこのまま子どもをおろしたら俺たち
もう、うまくいかないって。」
「私もそう思ってた。」
「阿秋、俺のこと好き?」
「なんで?」
「いや、聞きたかっただけ」
「だ・い・す・き!」
 僕は彼女を抱きしめた。この部屋で彼女と暖かい家庭を築き上げたいと心から思った。
 僕は彼女を抱きしめてキスをした。長い長いキスをした。


 引っ越しは、僕の部屋と彼女の寮を何度も往復することになった。彼女の弟や友達が手伝いに来てくれたので、無事
に一日で終われることができた。僕は彼女の体を気づかい、軽い荷物しか運ばせなかった。
 部屋が片付くまで、二週間かかった。僕はちょうど前期試験と重なり、荷物の上で勉強していた。
 結婚をまえにして、新居での生活がはじめた。ここが小さいながら、僕と彼女の家である。
「阿秋、ここが阿秋の家だよ。マレーシアの家じゃなくてここが阿秋の家。いつかマレーシアにも家、建てるけど
ね。」
 僕は彼女にそう言った。

 
 新居が決まったので結婚の手続きも急いで行った。国際結婚ということになるのだが手続き方法がよくわからず、何
度もマレーシア大使館に問い合わせた。
 日本人同士の結婚にくらべて手間も時間もかかるが、そのほうが結婚したという感じがしてよいと思った。紙切れに
判を押して提出するだけの結婚はつまらない。
 マレーシア大使館の人の話しによると、国際結婚の場合、夫と妻の両国で結婚の手続きが完了して初めて結婚成立と
なるらしかった。
 僕たちは一度マレーシア大使館に出向き、手続きの相談をした。
 マレーシア大使館は旧山手通沿いにある大きな建物だった。初めそこを訪れたときは立派な建物に圧倒されてとても
緊張してた。
 受け付けで来館の目的、住所、氏名などを記入するとビジターと書かれたバッジを渡された。
 バッジを胸に付けて僕たちは入り口のドアを開けた。その空間にはマレー語、英語、中国語が飛び交い、まるでマレ
ーシアにいるような感じがする。
 僕たちは窓口に行くと結婚手続きの方法について聞いてみた。
「あの、日本国籍の人と結婚したいんですが手続きはどうやったらいいのですか。」
 彼女が質問した。
「あなたの宗教はなんですか?」
 窓口の人は突然彼女の宗教を聞いた。
「仏教です。」
 彼女は少し戸惑っていた。宗教といっても深い信仰があるわけではなく、ただマレーシアのおばあちゃんが仏教とい
うことだけだったからだ。
 マレーシアはマレー系、中国系、インド系を主とする多民族国家であり、国語はマレー語、国の宗教はイスラム教だ
った。
 もし彼女がイスラム教を信仰するムスリムだったなら、僕もイスラム教に入信しないと結婚は許されない。
 とりあえず彼女はムスリムではないのでよかった。
「最初にマレーシアの手続きをしてから日本の手続きを行う方法と日本の手続きを行ってからマレーシアの手続きを行
う方法の二種類があります。
 一般的にマレーシアの手続きを最初にしたほうが早くできます。
 必要書類としてはお二人の顔写真四枚とパスポート、日本人の方の戸籍謄本とそれを英訳したもの、マレーシアの方
の出生証明書とアイデイカードが必要になにます。」
 その男性の人は一気に喋り続けた。
 結局僕たちは、必要書類をそろえてから、またここに来なければならなかった。
 結婚手続きのしかたがわかり、僕と彼女はほっとした。一歩一歩目標に向かって歩いていると実感した。
 それから数日後に必要書類をそろえて、再びそこを訪れた。
 僕たちはマレー語で書かれてある婚姻届けらしい紙に記入しサインした。大使館の人の話しでは、この書類がマレー
シアに送られてマレーシアの結婚手続きが完了するまでに約二か月かかるということだった。
 そのころは彼女のお腹もかなり大きくなっているのだろうか。

 僕たちの間に突然誕生した新しい命は徐々にみんなに認められていった。
 彼女のお腹も日に日に大きくなっていった。
 7月に入り僕も彼女も夏休みが始まろうとしていた。夏休みは僕にとっては稼ぎ時だった。学校がないぶんアルバイ
トができる。僕は朝七時から夜十時半まで、ほぼ毎日働いていた。
 朝の七時からは運送会社でお中元の仕分け作業をしていた。それが十時に終わると十一時からはピザ屋で夜まで働い
た。
 僕は子どもができたとき一時、就職を考えたのだが、二部の学生ということで残業できないことがあり、何度も断わ
られた。
「焦って就職しなくてもいんじゃないの。」と彼女は言ってくれたが内心とても不安だった。
 彼女の言葉を聞いて、もう就職にこだわるのはやめようと思った。いまの方がずっと自由だし、気の合う仲間がいる
し、なによりも自分に合っている。
 僕はアルバイトを続けることにした。彼女と出会ったこの店をもっと続けていこうと思った。 


 しばらく働きっぱなしだった僕も一週間の休みを取った。僕は彼女と僕の弟と3人で青森に帰った。彼女が僕の妻に
なることを正式に僕の両親に報告したかたからだ。
 青森は彼女にとって2年ぶりの訪問となった。前に来た時の僕たちはとても若かったような気がしてきた。2年とい
う歳月がもっと昔に思えてくる。
 今彼女のお腹には僕と彼女の子どもが存在している。五か月目に入っていた彼女のお腹はすこし大きかった。
 あのころは、こんなことになるだなんて想像できなかった。僕も彼女もこんな形で入籍するとは思ってもいなかっ
た。
 僕はもう父親になることを誓った。彼女は子どもが生まれてくることを待ち望んでいた。
 それは僕たちにとって、突然の出来事ではあったが今は恥じたり、後悔してはない。むしろ彼女と一緒になれたの
で、よかったとさえ思っている。
 僕と彼女と弟、それから、まだ見ぬ我が子と僕たちの愛ねこ、夏々は真夏の北の大地をめざした。
 僕たちは夜のイルミネーションに飾られた首都高に入り、そして深夜の東北道を北上した。
 途中、彼女の体を気づかい何度も休憩をいれながら走った。夏々は慣れない車のなかで
「にゃーん」と鳴きながら落ち着けなかった。
 懐かしい景色が出てくるころにはもう辺りは明るかった。
「阿秋、もうすぐだよ。」
 僕は後ろの席で寝ている彼女をやさしく起こした。
 少しだけ開けた窓の隙間から、朝露に濡れた稲の香がした。ずっと嗅いだことがなかった懐かしい匂いだった。
 朝の空気は冷たく、やわらかかった。


 僕の実家は相変わらず全然変わっていない。茅葺き屋根の古い家は僕が東京に旅立った時や、一昨年阿秋を初めて連
れて来た時と全く同じだった。
 車が庭に入った時、両親は家の窓を開けて僕たちを歓迎してくれた。僕たちは車を降りて玄関の戸を開けた。
 懐かしい匂いがした。玄関に入った時にいつも嗅いでた匂い。僕が小さいころから毎日嗅いでた匂い。きっと弟もこ
の匂いを覚えているはずだ。
 僕たちは十時間以上のドライブでようやくたどり着いた。
「よぐ来たの、ご飯喰ったのが?」
 母が言った。
 まだ六時だというのに、朝食が出来ていた。別に僕たちのために特別に用意した朝食ではなかったのだが、長旅でお
腹が空いていたので僕たちは久しぶりに母の作った朝食を食べた。
 全然手の混んでいない雑な味なんだけれど
とても懐かしい味だった。僕と弟はこれで育った。彼女にはこれがどう写っているのか僕は知りたかった。
 その日の夜、僕たちはみんなで青森市内へねぶた祭り見学に行った。母は急いで仕事を終えて帰ってきてくれた。父
と母は家の軽トラックで、僕と彼女と弟は弟の運転する車で向かった。もう何年も、ねぶた祭りは見ていなかった。僕
の故郷の祭りを彼女にも見せたかった。
「阿秋、いつか子どもを連れてこよう。」
 僕はゆっくりと通り過ぎるねぶたを見上げながら、彼女にそう言った。
「そうだね。」
 北国の真夏の夜にねぶたは大きく輝いていた。力強いねぶた、あつい囃子のリズムと、はねとの群れに僕の心は少年
に戻っていた。


 次の日は母の仕事が休みだった。父は農業なのでいつでも時間は自由だった。
 僕たちは家の近所にある、うまいそば屋と評判の母お薦めの店に行った。家族で食事するなんて何年ぶりだったろ
う。
「どれでも好きなものを食べてもいいよ。」
 母は彼女にいった。母は彼女のことをとても気に入ってくれてたし、孫の誕生も素直に喜んでくれた。こんな嬉しそ
うな母を見れてうれしかった。
 食事が済むと母は、この街の観光名所を案内し始めた。小さい街なので観光名所と言っても、たいしたことはないの
だが、どれもこれも僕には思いで深い場所だったし、この場所を彼女にも見せたかった。父は僕たちのカメラマンだっ
た。


 青森最後の夜に母の実家や親戚の家に挨拶に行った。僕自身十何年ぶりの訪問なので、おじさんも、おばさんも、み
んな歳を取っていたが僕の顔はまだ忘れてはいなかった。
 彼女は僕たちの津軽弁の会話があまり理解できないらしく、かなり戸惑っていた。
 もし僕が彼女の親戚に挨拶にいくときは、おそらくもっと、わからないんだろう。
 八月だというのに夜の気温は二十五度前後だった。涼しいを通り越して、すこし肌寒かった。
 この地で僕は生まれ育った。いつか生まれてくる子どもにもこの街を見せてあげたい。
 僕のいままでの帰郷のなかで一番思い出に残る帰郷だった。家族がこんなにまとまっていてたのは初めてのような気
がした。
「もし、僕がここに住んだらどうなるのだろう。」
 僕はふと思ったが、考えないことにした。 僕は後ろ髪を引かれる思いで青森を出発した。
 今度くるときはもう一人ふえてるんだな。両親のうれしそうな顔が浮かんできた。僕らは再び、コンクリートジャン
グルの東京を目指した。
 大きな渋滞もなく僕らは走り続けた。高速道路の流れる景色がコンクリート色に変わってきた。ここには車の排気ガ
スと騒音とビルの街、東京だった。
 僕が緑の街を出てもうすぐ十年になろうとしていた。


 九月十七日僕たちは再び、マレーシア大使館に向かった。長かったマレーシア側の結婚手続きが終了したからだっ
た。
 いよいよ僕たちは正式な夫婦になる。
 その前に、僕たちは結婚の儀式をしなければならなかった。結婚の儀式とは、マレーシア大使館の主事の前で、結婚
相手てであるお互いを妻および夫とすることを誓うものだった。その儀式はすべて英語で行われた。
 保証人を二人必要とするので、僕たちは、彼女の弟と、彼女の高校のクラスメイトにお願いした。 
 僕たち四人は大使館の一階にある別室に案内されると主事の前にある椅子に座った。
 主事は英語で何かをいっていたが僕にはよくわからなかった。主事が英語で言った後に通訳の人が日本語で繰り返し
てくれた。 
 日本語を言い終えてから、僕と彼女は、主事の質問に「はい」と答えた。
 時間にして約十分の儀式が終わった。
「おめでとうございます。」
 主事はそういって、僕に握手してきた。
 彼女にも英語でなにか話していた。
「困ったことがあれば、いつでもここに相談しにきてください。」
 主事は自分の名刺を彼女に渡した。
 日本側の手続きはまだなものの、マレーシアでは僕たちは夫婦になった。紙切れにサインするだけの日本の入籍とち
がい、ここまでの道のりは長かった。
 思えば妊娠発覚から約五か月、僕と彼女は頑張った。もうかなり彼女のお腹は大きくなっっている。そのお腹で大学
院にも通っている。やはり多少は周りの目も気になるらしいが、がんばって欲しい。
 やはり僕たちの選択は間違っていなかった。今は、子どもの誕生を待ちわびている。
 彼女は子どもの布団やお風呂やおむつをすでに買っている。どんな名前にしようか、どんな服を着せようか悩んでい
た。
 妊娠という現象は女性の体にかなりのダメージをあたえるらしい。彼女はいつも、肩がこるとか足が浮腫むとか僕に
言っていた。
 そんな彼女の体を僕はいつもマッサージしてあげた。僕の子どもを産む大事な体である。
 僕たちの子どもはどんな顔をしているんだろう。そしてどんな子どもにに成長するのだろう。きっと、かわいい子ど
もにちがいないと僕は一人でそう思っている。
 いずれ、僕の子どもが大人になり、この出来事を知った時、彼または彼女はどう思うのだろうか。
 僕たちの選んだ道を評価してくれるのだろうか。それとも馬鹿な親を持ったと悲しむのだろうか。
 僕たちはこの事実を正直に知らせるべきなのだろうか。この事実を知ったら何を思うのだろう。彼女と一緒に、ゆく
りと考えていきたいと思っている。


 これは僕たちが体験したことをまとめたノンフィクションの物語です。
きっとこんな経験をしたことがある人はいると思います。人の命はとても尊いものです。
この時の僕と同じ状況の人がいたら、もういちど考えてみてください。なんとかがんばれるものです。

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